フィルムは記録する

フヰルム.レビュー 大東京

日本映画史初期のキャメラマンのひとりである川谷庄平が東京シネマ商会で手掛けた作品。手持ちカメラで撮影した東京の街と人々の姿を断片化し、演出場面も織り交ぜつつ、遊び心に前衛性を加味した自在な編集で震災からの復興に向かう都市の諸相を描き出している。メインタイトルで明らかな画面上部の欠落は全篇にわたっているとみられる。俳優・川谷拓三の父としても知られる川谷庄平は1914年に日活京都撮影所に入り、尾上松之助の全盛期からキャメラマンとして活躍するが、1924年に日活を退社して中国に渡り上海映画界で数々の作品を撮影した(川谷の経歴については参考文献『魔都を駆け抜けた男』による)。1928年5月の済南事件では現地に入って決死の撮影を行うなど非劇映画作品も手掛けており、本作は白井茂と共同撮影の『滿洲 序篇』(ST000266)『赤石岳』(ST000271)などとともに現存が確認される数少ない川谷の撮影作品のひとつである。済南事件ののち身の危険を感じて1928年6月頃に帰国した川谷庄平は日活に復帰すると、翌年にかけて『大道寺兵馬』(仏生寺弥作監督)と『噫無情 前後篇』(志波西果監督)の撮影を担当した。その後、東京シネマ商会に移ると1929年5月11日からは十数日にわたる『赤石岳』の撮影に参加しており(参考文献『「岳人冠松次郎と学芸官中田俊造―戦前期における文部省山岳映画―」展示解説書』)、6月29日の検閲記録が残る本作はその前後に撮影されたと考えられる。なお、画面に現れる歌舞伎座の上演演目は6月公演のもので(参考文献『六月興行大歌舞伎』筋書)、浅草の映画館街の上映作品からは5月末から6月初めにかけての撮影と推定される。ただ、御神輿の場面が5月の浅草の三社祭とすると赤石岳登山の期間と重なることから、他のキャメラマンの手によるもの、もしくは三社祭ではなく6月の蔵前の鳥越神社の例大祭のいずれかの可能性が考えられる。同年8月には日本を訪れたツェッペリン伯号を藤波健彰とともに霞ヶ浦の飛行場で撮影した(参考文献『ニュースカメラマン 激動の昭和史を撮る』)が、年末には再び上海に渡った。

作品詳細

作品番号
ST000245
映画題名
フヰルム.レビュー 大東京
映画題名ヨミ
フィルムレビューダイトウキョウ
製作年月日
1929
時間(分)
8
サウンド
サイレント
カラーの種類
白黒
製作会社
東京シネマ商會[提供]
スタッフ
川谷庄平[製作・撮影]
検閲番号等
1929年6月29日
D7582、日、實、風、フイルムレヴユー大東京、1巻、52m、東京シネマ商會(製作者、申請者とも)、新
尺長が下記の16mm版の検閲記録と同じなので、上記も16mm版の可能性がある。参考文献(『特選敎育映画集』)に記載された「五九四呎」(約181m)が35mm版の長さと考えられる。
1932年8月19日
G12340、日、實、其他、フイルムレヴユー大東京、1巻、52m、東京シネマ商會(製作者)、大阪毎日新聞社(申請者)、一六ミリ、再
フィルム映写速度
16
備考
元素材は、アメリカ議会図書館より返還されたフィルムより不燃化した16mmネガフィルムより1971年度に作製した16㎜ポジフィルム。
検閲時報の記載と比べると、元素材である上述のフィルムの尺長は59.159mで7m以上長い。
参考文献
『特選敎育映画集』(東京シネマ商會、1932年)69頁
藤波健彰『ニュースカメラマン 激動の昭和史を撮る』(中央公論社、1977年。文庫版は1980年)71頁[文庫版]
川谷庄平[著]山口猛[構成]『魔都を駆け抜けた男』(三一書房、1995年)
『「岳人冠松次郎と学芸官中田俊造―戦前期における文部省山岳映画―」展示解説書』(北区飛鳥山博物館、2014年)36頁、69頁
『六月興行大歌舞伎』筋書(松竹大谷図書館所蔵・芝居番付検索閲覧システム)https://www.dh-jac.net/db1/ban/solBP1929-A04/shochiku/