フィルムは記録する

戰禍の濟南

済南の日本人保護を理由に、名古屋第三師団が派遣され、蒋介石の北伐軍が占拠する済南城を攻撃、1928年5月11日に城ならび市内全域を占領した済南事変(第三次山東出兵)の記録。城を攻略するシーンは臨場感ゆたかに活写されている。

作品詳細

映画題名
戰禍の濟南
映画題名ヨミ
センカノサイナン
製作年月日
1928
時間(分)
9
サウンド
サイレント
カラーの種類
白黒
製作会社
林商會活動寫眞部
スタッフ
陸軍省[後援]、パラマウント・ニュース[提携]、ヘンリー小谷[指揮]、田口修治、森田三郎[従軍撮影]、殿本眞[編輯]、林商會活動寫眞部[製作]
検閲番号等
1928年5月21日
C5063、日、實、時事、戰禍の濟南、1巻、281m、林商會(製作者、申請者とも)、制フ二限臺二、新
同日に同題名のフィルムが上記を含め6本検閲通過している。
なお、「制フ二限臺二」とは制限事項として、切除が2か所(全11m)と説明台本抹消が2か所あったことを示している。切除は以下の字幕2点で、説明台本抹消はこれに該当する部分である。
・第一巻字幕第二「嗚呼十有餘年我日本軍が多大なる犠牲によつて一たび占領した青島、而して再び還附した青島」切除六米(公安)
・同巻字幕第十五「在留民の志願者にある篤志の看護婦の手によつて介抱せらるゝ名誉の負傷兵、貴とき「日本魂」は一婦人の胸にも輝やいて居る事をわすれてはならない、濟南遊郭の遊女はひたすら看護に心神を捧げて居る」切除五米(公安)
フィルム映写速度
18
備考
元素材は、1971年度に文部省より管理換を受けた35㎜不燃性マスターポジ。尺長は186mで、1928年5月21日に検閲通過したフィルムと比べると、95m短い。
「指揮」とクレジットされているヘンリー小谷は、1920年にハリウッドより招かれ松竹キネマ蒲田撮影所長に就任したが、1922年に蒲田を離れ、その後ヘンリー映画製作所、松竹下加茂撮影所を経て、1926年にパラマウント・ニュース社極東代表に就いている。
「従軍撮影」のクレジットがある田口修治は、戦前パラマウント・ニュースを初めとするニュースカメラマンとして活躍し、戦後はシュウ・タグチ・プロダクションとしてCIE映画などの製作を受託した。
参考文献
都築政昭『シネマがやってきた!――日本映画事始め』(小学館、1995年)226頁
藤波健彰『ニュースカメラマン 激動の昭和史を撮る』(中央公論社、1977年。文庫版は1980年)38-39頁[文庫版]
土屋由香、吉見俊哉編『占領する眼・占領する耳 CIE/USIS映画とVOAラジオ』(東京大学出版会、2012年)田口修治が設立したシュウ・タグチ・プロダクションを継いだ長男・寧へのインタビューに、戦前のカメラマンとしての経歴が言及されている(368-370頁)